~序~


2003年~秋~
落ち葉の音に記憶がさざ波のように寄せて返す。




ほんの小さな子どもの頃の私は、寝つきが悪く、
寝る時にはよく耳鳴りを気にしていた記憶があります。
桃色のギンガムチェックのカバーにくるまれた、
小さな枕に横向きに頭をのせると、その音が聞こえてきました。
心臓の鼓動にあわせてさーっさーっと耳の奥で鳴る音を、
 
ゆきちゃんがおそうじしてる・・・
 
おばあちゃんちの・・・あれは・・・ゆきちゃんっていう名前のおねえちゃん・・・
遊びに行くとわたしと手を繋いでくれる、優しいおねえちゃん・・・
ゆきちゃんが、おばあちゃんちの庭に落ちてるケヤキのはっぱを掃く音だ、
・・・と錯覚していました。
 
遠いおばあちゃんちにいる従姉が竹ボウキでケヤキの枯れ葉を掃く音・・・
おばあちゃんちは・・・確か、赤いバスに乗って、
それから青いバスに乗り換えて、
遊びに行くにはずいぶん時間がかかったはずだけど・・・
たぶん、うちはおばあちゃんちから遠く離れているんだろうに、
それに、今は、外は暗い夜なのに・・・
ゆきちゃんは、まだ、暗いお庭をおそうじしてるんだ・・・
でも、その音は聞こえてくるものなのかなぁ・・・
と不思議に思ったものです。
 
あれを聞いた夜・・・眠りに落ちる前の数分間・・・
あの時が、まさに私が、自分と母以外の、他人の存在に気づいた、
人との区別がついた瞬間、物心がついた瞬間だったような気がします。
いえ、むしろ次の出来事が、
耳鳴りの夜の観念の発生の元となっているのでしょう。
 
それは・・・
 
母に連れられ、バスでおばあちゃんちに行く時・・・
暑い夏でした。私は二歳になったばかりで、ほんの小さな子どもでしたので、
アスファルトに照り返される夏の日差しにぐったりしてしまっていました。
母はその様子を見かねて、道の途中の牛乳屋さんで、
瓶入りのオレンジジュースを買ってくれました。
 
不思議な牛乳屋さんです。お店の屋根を、
太いケヤキの木が突き抜けて生えていて、
店内にケヤキの幹が店の主人のように鎮座しているのです。
お店の屋根や軒は、さわさわと青々しい葉に覆われ、
おかげで涼しげな木陰ができていました。
お店のオジサンが、瓶の紙の蓋を、それをはずす専用の、
先に針状のものがついたプラスチックの棒で、
ビニールも外さないままにそれごと突き刺し、
ぽんと心地よい音をたてて開けてくれました。
冷たい瓶に唇をつけると、一瞬の心地よい冷たさからは想像できなかった、
がちんと歯に当たるその瓶の厚みにまどろっこしさを感じ、
戸惑いながらごくんごくんとオレンジジュースを喉に流し込みました。
小さな私の体は冷たいジュースのおかげですぐに冷えました。
 
少し元気が出て、店を出てまた歩き出すと、
キーンという甲高い音がどんどん近づいてきました。
小さな旋盤工場があるのです。工場の前の道は赤錆に覆われていて、
黙って暑さにじっと耐えているような、
無機質な鉄屑が工場からはみ出て散乱しています。
たった今削られたばかりでちりぢりとくるくるとまるまった、
夏の太陽の熱さえ吸収し照り返し、そこに放置された金属の削りカスは、
つんと鼻に突きに刺さるような金臭さと、熱い空気を放出しています。
 
またぐったりしてしまいました。そこを通るだけで、
乳児期から脱したばかりの私の柔らかな茶色い前髪が、
汗で額にぺったりとくっついてしまいました。白い帽子のあごひももぐっしょりです。
その私の様子を見た、まだ若かった母が、
『香ちゃん、疲れたの?じゃぁ、ちょっとの間おんぶしてあげるから、
またあそこから歩くんだよ』
とどこを指すのかもしれない彼方を指さしながら私に言って聞かせ、
汗で下着が透けてしまった白い麻のシャツの背中を私の前に広げてくれました。
自分とは違う匂いを放つ、この若い母の背中におぶさって、
自分の足で歩かずにも遥か自分の下の道路が
どんどん後ろに送られていくという、不思議な様子を楽しんだものでした。
 
やがて・・・
 
・・・土間の向こうの掘りごたつの奥に、
おじいちゃんとおばあちゃんがいました。
わたしのおじいちゃん、おばあちゃん、
台所にはオカアチャンがいます。
熱い空気の中を泳いで、バス停からの長い旅を終え、
やっと涼しい土間のおばあちゃんちに着いたのです。
 
ここは、わたしのおばあちゃんちという所です。
 
夏なので、掘りごたつに布団はありません。
 
居間の畳は、ごつごつとして薄汚れた目積織りです。
 
穴の開いた障子の間の黒々とした柱に、
恐ろしい程無表情の黄ばんだ能面が飾られたおばあちゃんち、
 
ここは、わたしのおうちとは違う所です。
 
おばあちゃんちにいると、時折ものすごい轟音がしてきます。
土間の屋根は、プラスチックの波板で、ところどころが割れてしまっていました。
その割れ目から、ゴーッという音を引きずりながら飛ぶ、
カーキ色の胴体の真ん中に赤い丸の描かれた飛行機が見えます。
それは意外なほどゆっくりとした速度です。
今まさに立川基地に下りていく途中なのです。
窓ガラスがびりびりと割れんばかりに振動します。ちょっと怖いです。
 
・・・ここは、おばあちゃんちです。
 
ゆきちゃんも、さっちゃんもいます。わたしの従姉妹達です。
 
ゆきちゃんは、いつもおばあちゃんとオカアチャンのお手伝いをしています。
わたしが遊びに行くと、優しく面倒を見てくれます。
おばあちゃんちにくると、みんなが可愛がってくれるので、
わたしはおばあちゃんちに来ることが大好きです。