北方領土の日・森山先生を絶賛する記事


私が小学5年に進級した時、26歳の男の森山という先生が担任になった。
新学期が始まったその日、クラス替えの発表の紙が貼られ、
新しいクラスメートとともに、
新クラスの面々が集まっているブランコの前に向かった。
そこで初めて新任の先生に出会い、話を聞いた。
それまで私は担任の先生というと女の先生ばかりだったので、
体も顔もバカでかい男の担任が怖く見えた。
大人の目で客観的に見たら、森山先生はきっと男前の部類だろう。
贔屓目に見てブルース・ウィリスだ(ホントかよ



その森山先生はブランコの前で、


「オレは自衛隊あがりだ。お前らをビシビシ鍛える。
男はバンバン殴る、女はケツを叩くから覚悟しておけ。」


と言った。今では考えられないことだが、
当時の子どもたちはその担任の先生の迫力に、
ただ頷くだけだった。
今思うと、新しいクラスメートは、
学年の中でもやんちゃな子が多かった。


その日、小学校の学区内は森山先生の噂でもちきりだった。
すごい先生が来たぞ、暴力教師だ、とかw
まるで昭和の学園ドラマのようにw
当時はバリバリのリアル昭和でしたけどw。

私は家に帰って新しいクラスの話をしたら、
うちの母はすでに、耳の速い近所のゆみちゃんのおかあさんから、


「ちょっとあんた、oboro_moonちゃんの担任、
自衛隊あがりだって?!だいじょーぶ?!
暴力教師らしいわよ?!」


と言われたそうな。
母は、


「そういう先生はいい先生かもしれないね。」


と言っていた。



クラスが始まると先生の授業の進め方や、
授業自体、独特だった。
教室の机の並べ方も他のクラスと全然違った。
普通は整然と碁盤の目に碁石を並べたように机を並べるけど、
森山先生は教壇を教室の窓側に追いやり、
子どもたちには教室の中で3~4重の半円を描くように机を並べさせた。
先生は黒板に字を書くとき以外は、
その円の真ん中に立って子どもたちの顔をくるくる見回した。
今は普通なのかわからないけど、当時は奇抜だった。


新学期初日の宣言通り、先生はよく子どもたちを殴った。


「足を開けぇ、歯を食いしばれぇ~」


と言ってバシィっ!!とやった。
殴ったというより平手打ちだ。
先生は空手の有段者だった。手もデカくてごつい。
あれでも恐らく加減をしていたんだろうけど、
叩かれた男子の頬は真っ赤になった。
でも誰も何も言わなかった。
なんでか?自分が叩かれることをしたって分かっていて、
反省していたからだろう。


よく殴ったとはいえ、それは子どもが悪いことをした時だけで、
あとの普段のお仕置きw?と、女の子は、モップの柄でお尻を叩いていた。
ある時クラスでも大柄の男の子のお尻をビシィっと叩いた時、
モップの柄が折れた。
先生はそれをケツを叩く専用の棒にし、
その男の子に油性マジックで折れた柄の真ん中に


「ケッパン棒」


と書かせた。


宿題を忘れたとか、提出物を忘れた、
そういうときに子どもたちはケッパン棒で叩かれた。
その程度なら軽く、ポン、と叩かれる程度だった。
ちょっと悪いことをすると、バンっと強めに叩かれた。
それより悪い、イジメとか嘘を吐いたとかの時は、
先生の平手打ちがさく裂した。
あのクラスで卒業までにケッパン棒で叩かれなかったのは、
私一人だけだった。
なんと私は超チビの優等生だったのだ、恥ずかしい。
先生は私を叩いてはいけないって知ってたんだろうな。
すごく悲しいことだ。
そういっても私は叩かれるようなことはしてないからしょうがない。


先生は放課後、学校のクラブ活動とは全く別で、
校長先生に許可を取って体育館を借り、
有志で空手を習いたい子どもに教えた。
覚えているだけで男の子5~6人に女の子が2人教わっていた。
私にはまるで関係のないことのように感じていたので、
練習風景は見たことがあったけれど、
特に関心は寄せなかったが、
これもすごいことだったと思う。


国語算数理科社会、以外の校外学習も多かった。
あれは先生の気分だったのか、わかんないけど、
よく、


「5時間目は外行くぞ。」


って言って、授業はしないで街の中を歩き回った。
雪が降れば授業は中止、外へ行け、って。
子どもたちは大喜びで雪合戦をした。


私たちは何を学んだのか?
わからないけど、交通ルールだったり、街のお店や、
冷たくて白い雪とその眩しさと・・・
とにかく教室では見えないものを見たのだろう。


教室には常に顕微鏡が置かれていた。
ある理科の時間、先生が子どもの誰かに顕微鏡を出させ、
プレパラートに挟まれた白い物体を子どもたちに見た。


「これはなにか、当ててみよう。」


と言った。
みんな顕微鏡を覗いては、
あーでもないこーでもない、いろいろと答えを言ったが、
どれも当らず、先生の首は横に振られるばかりだった。
授業が終わる鐘が鳴り、先生が答えを言った。


「それはオレの水虫の皮だ。」


と言った。


あの時みんなはどんなリアクションだったのか?
覚えていない。今考えるとメチャクチャ面白い先生だと思う。
あの授業はたぶん、顕微鏡の使い方、だったのかもしれないw
まったく破天荒過ぎる先生だった。






けれど、とても教育熱心な先生で、今で考えると26歳の若さで、
よくもまぁあそこまで小学生を指導したものだとつくづく思う。


だってさぁ、うちの長男君があと4年経ったとして、
あの森山先生の精神年齢になるかっていったら、
ならないでしょうと、全力で分かる。
それどころか今の私でも当時の先生の精神年齢より遥かに幼稚だろう。
とうてい最近のヤングには理解できないだろう。
森山先生は、子どもの教育のことばかり考えていたんだと思う。


休みの日も返上して、クラスのみんなを上野動物園だ美術館だ、
奥多摩の山だ、はたまた2泊3日の臨海学校だと、
学校行事以外の課外授業として、自らが引率していったのだ。
当時、他のクラスの子は、新学期のご愁傷さま♪気分は吹き飛び、
森山先生が担任でいいなぁ、と言っていたくらい。
私は当たり前のようにそれを享受していたが、
ほんと、考えられないことだ。


先生は時々、授業と関係のない歌を教えてくれた。
それは知っている歌もあれば、知らない歌もあった。
覚えてるだけで4種・・・
種、というのも、一つのエピソードは、
先生が小椋佳にハマって、カセットテープを持ってきて、
子どもたちに数曲聞かせたことがある。
特にお気に入りは、


♪ぼくは~呼びかけはしない~
遠く旅立つ者に~♪


という歌だった。


それと、他に2曲、


♪いまは~もう秋~誰もいない海~♪


♪アカシアの雨に打たれて~
このまま~死んでしまいたい~♪


あとの2つは先生がどこぞのスナックか何処かで、
ホステスが歌ってたんじゃないか?( ゚д゚) と、
今だったらわかる、というか想像できるw



小椋佳も、今はもう秋、も、
どちらかというと、迷った時に答えを導いてくれる歌ではあると思う。
子どもたちの記憶に何かを埋め込もうとしたのかな?
と思うのは買いかぶり過ぎなのか?
それにしても小椋佳にハマる26歳って渋すぎるw


そして先生が一番教えたかった歌、




千代に八千代に

細石の巌となりて

苔の生すまで



黒板に書いて、意味を教えてくれた。
そのとき先生は、


「小石が大きな岩になって、
それに苔が生えるくらい長い年月、ってことだ。
お前ら小石は努力するんだ。
女の股に力と書いて努力だ!」


と話した。
先生はよく、努力、と言った。
それと、コツコツ精神、とも言った。




森山先生は、社会の授業で北方四島のことを教えてくれた。
教室の黒板の横に、ドでかい地図を天井から吊るして、
ケッパン棒で指しながら授業を行った。
歯舞・色丹・国後・択捉、復唱させられた。

当時の私にはよく理解できず、けれど日本には、
日本の領土であっても往来ができない土地があるのか、
と実に不思議な思いと、悲しい思いになったことを記憶している。


(しかしこの2年後の中一の時にデジャブが起きる。
中学の社会の教師が北方領土のことを全力で教えてくれた。
ちょっと話がそれるけど私はその社会の先生に恋してたかもしれない。
社会科の授業は相当ガンバッタ。)


私たちが卒業した後、森山先生は、
数年小学校で担任をしていたが、
まだ10代だったかなぁ、同窓会があった時、



「お前らを教えたのが一番楽しかった。」



って言ってくれた。
それは本当のような気がした。
だって先生、あの頃みたいに生き生きした顔じゃなくて、
なんとなく精彩を欠いていたから・・・
先生も私たちも、お互いが大好きだったんだ。

その後、先生は、小学校の教諭をやめたと聞いた。
勉強をし直すから、福岡に帰るらしい。って。



そのあと先生の話を聞いたのは、
確か、私が子どもを産んだ後だった。
森山先生は、勉強し直して、高校教師になり、
またその後、今から5年前までは都立高の校長をしていたようだ。
今はどうしてるのかわからない・・・

その高校は先生が校長をしてから、
文武両道、勉強と部活を努力する、っていう校風をつくり、
その学校はぐんぐんよくなったと評判を耳にした。
偶然にも高校の剣道部の同期が教師になり、剣道部の顧問になった。
同期会の時に、そいつから森山校長のことを聞いた。
彼は森山先生が私の小学生時の担任だったってことは、
その同期会まで知らなかったのだった。


先生をググってみたけど、そのデータはほとんど出てこない。
唯一出てきた記事の中に先生の経歴が載っていた。
海軍兵学校生徒教育部→東京学芸大学→小学校の担任→
慶應義塾大学兼任講師→高等学校教諭→高等学校校長・・・
私たちの担任だった時期は先生の人生の通過点でしかなかったのに、
あんなに濃厚な日々と教えと思い出、
先生は本当に努力の人だったんだと思った。




2月7日が北方領土の日だと聞いた、
1855年に、日露和親条約が結ばれ、
北方領土が日本の領土だと認められたことに由来し、
1981年に日本政府が制定した日だ。
森山先生のことを思い出した。
先生の、愛国心に満ちて血気盛んな時代に、
私たちと出会ってくれて、本当によかったと思う。


話は森山先生から外れるが、
元婚家の義父は、シベリアに抑留されていた。
ニュースサイトで抑留されていた人たちの話を知ると、
随分と酷い目に遭ったり、亡くなった人も多いことに衝撃を受ける。
私は義母は大好きだったが、意地悪な義父は嫌いだった。
けれど、このことには敬意を表する。
義父からもっと話を聞いておけばよかったと思う。







全くカンケーないけど、
ここ、地元で2月7日は、フナの日だそうだ。
河川に囲まれたこの土地、淡水魚の甘露煮が名産なのだ。
いろんな今日は何の日があるのには驚愕だv( ゜Θ゜)v