1年経ちました

あの日は夜勤の週だった。
3月11日、次男の中学卒業式を4日後に控えていたのもあり、
自分の中学卒業時代の思い出ともダブらせて、
昼間の金八先生の再放送を見ていた。


越してきて2週間の賃貸マンションの5階のわが部屋、
どこからともなく轟音が響き渡り、!?!?と思っていると、
今まで経験したことのない大揺れを感じた。


台所では棚から調味料がバラバラ降っていた。
テレビは無いのでパソコンで金八を見ていた、その画面が、
ガタガタ揺れて台から落ちそうになっていた、
その時画面に金八先生の「私たちは人間を作っとるとです!」
という涙ながらの訴えの大写しの顔の上に、
地震速報が入っていたが、あまりの揺れにパソコンの
電源を落とした方がいいと考えて、シャットダウンし、
コンセントから引っこ抜いた。


ひとりの部屋で私は様々な言葉を口にしていた。
揺れて歩くのもおぼつかない状態だったが、
ガラス張りの扉の付いている本棚が倒れたら困ると思い、
隣の飾り棚と同時に手で押さえつけた。


隣の部屋ではベッドが床を滑って左右に動いていた。
本棚の向かいの収納棚の小さな家具もずるずると
床を滑っていた。


その時間と言ったら何十分にも感じた。


どうにもこれは大変な地震に見舞われている!と思い、
オーディオのラジオのスイッチを入れた。
まだ電気は来ているようだ。アナウンサーが絶叫していた。
声は上擦っていた、けれど懸命に注意と避難を促していた。
かつて聞いたことのないほどの放送だった。


長男から「無事です」の一言だけ、メールが来た。
こっちからどこにいるのか返信したが、そのときは
携帯通信ができなくなっていた。


他の家族はどうだろうか?ととても心配した。


ベランダから外を見た。通りを走っている車は、
路肩に停まって、走っている車はなかった。
電線が切れるんじゃないかと思う位大揺れに揺れていた。


まだ着替えていなかったので大急ぎで仕事着である
作業服に着替え、クロゼットから小さな旅行鞄を出し、
賃貸契約書や保険証書など書類や、パソコンデータの
詰まったUSBメモリー・下着数枚・携帯充電のACアダプタ
などを突っ込んで部屋をすっとび出た。


エレベーターが停止中のランプが点灯して止まっていた。
非常階段で震える足を急いで前に出して駐車場に降りた。


携帯が通じないので、近所のコンビニに行き、
公衆電話で実家の母に電話をした。
その間も地面が波打っているような感じだった。


母と話しているうちにちょっと落ち着いてきたが、
この地震の後のことを考えて絶望的な気持ちになった・・・






あれから1年、
私と私の家族は直接的に被害には遭わなかったが、
あの時の恐怖は忘れない。
連日のニュース、日本が傷ついた日、
完膚なきまでの大津波の被害、
悲しく辛い思い以外ではいられなかった。
現在、復興は少しでも進んでいる?
どうなのかわからない。
テレビはくだらない演出ばかりだろう、
あの日以来全く見ていない。


何をどう言ったらいいのか全く分からない。


昨年夏に機会があり、5日間の中3日という大変短い
期間だったが、岩手県に復興ボランティアに行かせて頂いた。
ちっぽけなワタシの力ではほとんど役には立たなかったかも
しれないが、被害に遭われたのに明るく懸命に
故郷を立て直そうとしている地元の方々の笑顔が見れて、
せめてもの救いだった。


例年よりずっと、今冬は厳しいものになっただろう。
ボランティアも夏の時期は多かっただろうけれど、
だんだん数も減ってきただろう。
自分自身、当時は辛い思いに包まれていたけれど、
だんだんと辛さが薄まってきてしまうのに気付いていた。


だから、今日は思いだした。
地球規模の大地震、地軸もずれ、海岸線も後退、
ものすごい生きている地球のエネルギーに脅威を感じた。
アナログ時計が2つ、なぜか同じ時間だけ遅れていた。
18分、この時間は何を物語っているのだろう。


最近週末の天気が悪く、あまり出かけないことが多い。
たぶん、今年に入って天気に恵まれた週末って2~3回、
あったかどうか。土日に天気が悪いとは、経済的には
あまりよくない気がする。


今年は頑張って、ツーリングに出かけたいと思う。
それが細やかながら日本の復興に繋がると思うから。
なんか、うまく言えないけれど、被災された方々が、
少しでも笑顔になれたらいいと、それだけを思う。


私は日本人で、日本が大好きで、
日の丸は美しい国旗だと思います。